仕事運とか恋愛運とか金運とかを勝手に予想され、ラッキーカラーなるものまで指定しており、あなたは私を産んだのかとつっこみたくなります。
何で占うかを見てみると、星座、血液型、誕生年、方角、色などあきれるほどいろいろあるようですが、人はロボットではないのでそのパターンは無限大なわけです。
誰も占いを100%信じているわけではないのはわかりますが、それにしても精神的占有率が高すぎるかなと思います。携帯でパケット料を払ってまで見るのは、その顕著な例です。
要は、自分自身を知らない人が書いた文章に微量でも左右されるその弱さは何なのか、そこが不思議なわけです。
弱い人は集って互いに慰めあい、それで自己満足してまやかしの世を生きるようですが、錯覚に包まれたむずがゆい感触を感じないのかと不思議に思います。
このような主張性の高い内容の文章にすぐ反論してくるのも、精神の真髄を自分以外の何者かに託しているような人が多いのも事実。自分は占いや宗教を決して取り入れませんが、否定もしません。なぜならば、人それぞれに思考や志向や指向や嗜好があるからです。
これを理解せずに「いいものはいい!」と過度な勧誘をする現象は、到底理解できないものです。車マニアが「車はおもしろいからやってみないか?」と誘っても、そもそも興味がなく、生活スタイルも人それぞれなわけで、やらないのはやらないと思います。
この世を穏やかに生きるためにはいろいろなポイントがありますが、その中のひとつに人と無意味な衝突を避けることがあると思います。
その方法のひとつとして、多様性を認めること、つまり「人それぞれ」を認知することが重要であると思います。
たとえ意見や思想が違っても、即座に別物を異常と判断するのはあまりにも短絡すぎます。人はそもそもアナログな生き物なわけです。
多様性を理解できるようになると、今年の運勢の文章など笑い飛ばすレベルになるでしょう。
しかしながら、「A型いて座」という個性だけはある程度の統一性を持った要素を含んでいると感じるのも事実。
そう感じるのも「多様性」のひとつであることは言うまでもありませんが。
いずれにせよ、占いで喜怒哀楽するような浮かれた時を歩む暇があったら、自身で道を拓いたほうがはるかに有意義であり、現実的であると思います。
そんなわけで、自分は未来を占うようなことには全く興味が無いわけです。
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