仮にあの大地震が起きなかった場合、今の時代はどうなっていたのかを想像しても、
なぜか何も想像できません。
きっと、あの大地震の後に無意識に何かをリセットしたからなのかもしれません。
社会の歴史の中に、人々の記憶の中に、それは間違いなく認知されつつ刻まれました。
事実の上を歩んでいく時、足を踏み出すごとにそれはいつも足の下にあります。
記憶や体験は、時が経つとともにいろいろな意味で風化されていきます。
しかし、大切な人を失った人にとっては、5年経っても10年経ってもそれは昨日の出来事であり、
あの日より前の時代と何ら変わらない声や匂いやぬくもりが今でもすぐそこにあるのだと思います。
"安らぎ"と"憎しみ"という相反するものを、視野の両端に押し込めながら前を見て歩む日々。
そのどちらを見てもつらくなるので、前を見るしかないという人も少なくないと思います。
そのような人たちに、先日出会う機会がありました。
「気を抜けば見たくないものを見てしまうから前を見ているだけだ」
時の節目を刻むことのできないまま、今日もたくさんの人たちがそれぞれの日々を暮らしています。
あの日から5年。街や人を舞台に押し上げて客席から眺めることは容易です。
しかし、舞台に上がってその場に立ってみなければわからないことも多いはずです。
笑顔で話す被災者の手は震えているかもしれませんし、視線の移動は完結できない心情に触れた
せいかもしれません。
押すでも引くでもなく、同じ高さで横で話を聞いてあげることも大切なことだと思う次第。
2016年03月11日
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