2011年01月21日

時間旅行は最大の薬

普段そんなに観ない映画やドラマなどでも、いざタイムスリップ系の要素が入っていたりすると観たりします。
「JIN−仁−」「Q10」「サムライ・ハイスクール」「漂流教室」「戦国自衛隊」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」なんかが、その代表例です。
それと似たようなことで、半年に1回ぐらいの割合で卒業アルバムを小学校から全部一気に見たりします。

どちらも見終わってから似たような感覚になるのですが、どこかで何かがリセットされるような気になります。
これを客観的に分析してみると、今日とか明日とかの目の前のことや今の世の中のことに対して感じる不安や不満を、日常とは違った視点から見ることによってやわらげたり解決策を見出したいという脳の自己防衛の一種なのだと思います。

せかせかしながら時間を泳ぐような毎日、どうしても目先の事象をまず解決しようと目の前しか見ていない時間が多くなりがちです。そんな日常から生まれる疲労や不安、これを何とかするにはやはり時間軸を麻痺させるのが最も効率が良いような気がします。

お酒を飲んで酔うのも良し、風呂に入ってうとうとするのも良し、旅行に行って美味いモンを食うのも良し、現生から一時的に離れてみる方法はいくらでもあります。
前にもひとり旅のところの記事にも書いたのですが、これは決してエスケイプではなく、むしろ今を見つめなおしたいという極めて前向きな行動なのであります。

卒業アルバムを見るのはおもしろいです。両手を広げたほどの視野でせかせか生きていても、左手の先にはとんでもない量の時間量があったことに気づきます。そしてその時間量がこれから右手の先にもできるんだということにも気づきます。
今はいっぱいいっぱいだよ…と言ってみても、その「今」というのは前後の時間量から見ると一瞬のようなものです。今まで何百回も経験してきた喜怒哀楽のドラマの中にやがて含まれる1回なわけです。つまり、過去に経験したようなことをまた経験しているだけなのだということにすぎません。最悪とか絶望とかとは次元が違うわけです。

脳は自身を浄化できますが、人間という生命体にはこれがなかなか難しく感じます。
それでもいつのまにかかなり解消されたような感覚になります。これを時間がそうさせたとか言ったりしますが、実はちゃんと脳が自身を浄化していたのかもしれません。人間という生き物が脳を含む生命体である以上、脳はやはりちゃんと人間を守っているのかなと思います。
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2011年01月13日

入る前は猫、入れば猿

昔からそうなのですが、自分は風呂が嫌いです。しかし、風呂が好きです。
好きなのか嫌いなのかいまだによくわかりませんが、とにかく風呂に入る前は軽く鬱になってひとりで拗ねます。
なんで今ここで体を濡らさなきゃいけないんだ、拭かなきゃ乾かないだろ!
そんな思いで毎回仕方なく風呂に入るのであります。

そんなこんなで風呂に入ってみると、こりゃまた極楽。時間が許せば2〜3時間でも入っていたい気持ちになる次第。
今度は、出たくない〜♪と思いつつ、渋々出てくる始末。

それでもまた次の風呂のときには、軽く鬱になる状況。
なんなんでしょうかね(-_-)Zzz
タグ:風呂
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2010年06月21日

見解-浅田飴水飴の思い出

昔からニッキ味のものが好きで、ニッキ飴などはよく食べていました。
そんな中、浅田飴水飴に出会い、のどが痛いとかうそを言って買ってもらっていましたが、そうそう安いものでもなかったので年に1回か2回ぐらいしか買ってもらえませんでした。

ある日、友達の家の中でかくれんぼをすることになったのですが、お金持ちのお城のような大きな家だったので、隠れるところはいくらでもありました。
かくれんぼの鬼の10カウントが聞こえる中、広くて長い廊下を走って横の引き戸を開けて中に入りました。
そこは台所。テーブル、流し台、冷蔵庫、どれもが覆いかぶさってくるほど大きくて、そこは隠れ場所もたくさんありました。
台所の引き戸を開けて中を見ても陰になるようなところということで、大きな冷蔵庫の横に入り込みました。

隠れ場所が鬼の想定外だったのか、鬼はなかなか台所の引き戸を開けてくれません。なんだかひまになってふと横を見たら、そこに大好物の浅田飴水飴がありました。
封を切っているので一口ぐらいいいだろうと、中のスプーンに山盛りにした水飴を口に放り込み、しばし幸せな時を過ごしました。
ところが、いくら待っても鬼は台所を探しに来ません。そうしているうちに、もう一口、さらにもう一口、気が付けば最初の量の半分以上を食べていました。
やばい、食べ過ぎた、食べたのがばれたら怒られると思い、当初の隠れ場所だった台所から隣の部屋にこっそり移り、そこでわざと鬼に見つかるようにしてアリバイを作ったわけです。
あの時の浅田飴水飴の味は、今でも忘れません。
お金持ちのO君、浅田飴水飴が減っていたと思いますが、食べたのはわたくしでございます。ごめんなさい。
タグ:浅田飴 水飴
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2010年03月09日

もう少しサバイバルに生きろ


ニュースを引用してブログを書くことは初めてなのですが、それほどあきれているわけです。
例の、軽自動車だから軽油を入れたのニュースなのですが、驚いたことにいまだにあるようです。

人は知識や常識をもって社会を生きていますが、社会のすべてを知って理解することはもちろん無理なわけで、それを補うためにプロにお願いし、代金を支払うわけです。魚を食べるために漁に出るのは大昔の話、お店で代金を支払って買ってくればいいわけです。

セルフスタンド。ここはセルフの世界。自分で判断して行動する場所です。自分で判断するためには相応の最低限の知識が必要であり、しかも対象物は危険極まる危険物です。さらにそれを用いて動かすのは、命を乗せた4個のタイヤ。そして動かす場所は公道です。
9割9分9厘の人が常識として知っていることを知らず、公道で停止して渋滞を引き起こすことは、逮捕に値する愚かな行為だと思う次第。

軽油の名前を変えればいいとか改善案を言う人もいますが、個人の常識レベルの次元であることまで、なんでもかんでも社会のせいにしてほしくないと思うわけです。これは、子どものしつけが悪いのは学校のせいだと大騒ぎする現象と同じです。
弱者保護にも限度があるわけで、こういう改善費用が商品価格や税金に跳ね返ってこられてもたまりません。もう少し身のまわりの生きる知識に対しては、サバイバルな対応をしていただきたいと思った次第。

それにしても、軽自動車だから軽油と判断した人は、原付には原油を入れるのでしょうか。ラッセル車にはラー油、馬車には馬油、漁船には魚油、クーペにはオンリー油ーということでしょうな。(昭和ギャグ失礼)
せめて座薬だけは正座して飲まないようにしていただきたいと思います。
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2010年02月26日

見解-みんなワールドを持っていました

先日、地元の写真コンテストで賞をいただいたときに、アマチュアカメラマンの方々とお話をさせていただきました。
何十年も写真を撮り続けている写真好きの方々で、数々の賞に何度も入選しているスゴ腕の方々ばかりです。
いろいろお話をしていて感じたのですが、みなさんそれぞれが"ワールド"を持っているんだなと思いました。
頭の中に言葉にはならないルールがあり、それに沿って撮影するので、自分なりのワールドが確立しているようです。

何がすごいのかと言えば、みなさんが日常の生活と両立させていることです。
通常、というか自分の過去の経験で言えば、ある一定の感性を維持するには、世間とある程度の距離を置かなければなりませんでした。感性は磨くものではなく養うのものなので、その育成には世間とは別の栄養が必要だったわけです。

誰でもそうだと思いますが、社会と距離を置けば置くほどアートの脳になっていきます。それは絵であったり写真であったり詩であったり様々ですが、それらが輝いて見えるのは日常とは別の世界から生まれたものだからと思うのです。
非日常や異次元なものに触れた時に人はハッとするもので、それがアートというものなのかなと思ったりします。
そういうものを、日常の生活の中で高い次元で維持している人たち。そういう人といつかゆっくり話してみたいなと思います。

日常を研ぎ澄ますのは技術や物資で可能です。しかし、非日常を生み出すには感性が必要です。それはその人の中だけに存在するものであり、外からは容易く触れることはできません。
絵や写真や詩という形になったものでかろうじて感じることはできるのですが、その神髄に触れるにはこちらにも相応の感性が必要なわけです。
そういう人たちのイベントでもあるコンテスト、応募はしなくてもそれらの作品に時々触れていきたいなと感じました。
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2010年02月13日

見解-ネット社会の中の新聞について

インターネットというものを使うようになってから、ニュースもネットで読む機会が多くなりました。Yahooやmsnやlivedoorや時事ドットコムあたりを毎日徘徊しています。
中でもYahooの場合はMyYahooというものがあり、ここで新聞の全国紙や地方紙の記事まで読んでいると、これはもう便利なわけです。
何がいいかと言えば、まず時間に関係なくいつでも読めること。そして常に最新の記事であることです。

しかし、そんな状況でも新聞はとっていて、もちろんそっちも読んでいます。まあ、とっくに既読の記事だらけなのですが。
それでも読むところというものは確実にあり、超ローカルな記事などはネットに多くは載りません。そんなわけで、気がつくと紙面の下半分ばかり見ているわけです。
確実に読まなくなった欄は番組欄でしょうか。さらに詳しい番組内容をタイムリーに表示してくれるネットの番組表は、確かに利便性は高いです。

左脳的な発想は以上ですが、自分的には新聞は右脳にも響くものであったりするわけです。
朝起きて一日の始まりの場には、やっぱり新聞というものが無いと寂しいです。情報が詰まった紙の物体というものは、やはり存在感があります。自分の場合は家の新聞は夜読み、朝は会社でとっている別の新聞を会社で読むパターンなのですが、地域のニュースは早く知っておきたいわけです。
もちろん、地域のニュースといえばチラシ。スーパーやホームセンターなどのチラシは必ず目を通します。というか趣味でもあるので、そこが一番読み応えがあったりするわけです。
例えば、カップ麺が83円のチラシを見たりすると感極まるものがあり、昼休みや夜に買いに行きます。ポイントを貯めるのが好きな某評論家もいるようですが、自分の場合は通常販売価格と大差のある価格の商品を買うのが趣味で、いわゆる安売り環境でのショッピングが好きなわけです。それに必須なアイテムはチラシなわけです。
最近では、そのチラシでさえネットで閲覧できるようで困ったものですw

地域の詳細なニュースやチラシが必要なうちは、新聞はとり続けるでしょう。あと朝っぽい雰囲気も。
よくネットをいろんなものの代替品として必要かどうかを論議しがちですが、結論から言えば共に必要であることが多いと思います。
紙媒体には紙媒体の良さがあり、ネットにはネットの良さがあります。その偏りが極度に大きな人は、どちらかを捨ててもいいでしょう。しかし幅広い視野を保ちたい場合、やはり100:0の結論には届かないわけです。レストランに入って、水がセルフサービスだったときの寂しさに似ています。接客の水ぐらい持ってこいよ、文化だろ。そう、文化です。朝の新聞も文化なのであります。ここまで書いてしまうと左脳だ右脳だ言う前に、文化ですの一言で片付きそうですけど。
いやはや、新聞をとり続ける理由がこんなところにあったとは、今さらながら心外でもあるわけです。
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